中国石窟クムトラ石窟 - 新疆ウイグル自治区文物管理委員会

新疆ウイグル自治区文物管理委員会 中国石窟クムトラ石窟

Add: hixoge6 - Date: 2020-12-03 04:15:35 - Views: 5278 - Clicks: 9807

新疆の石窟 新疆ウイグル自治区(歴史書では東トルキスタンと表現されることが多いです)には、数々の仏教遺跡が残ります。 庫車(クチャ)や吐魯蕃(トルファン)の石窟は、割合オープンでいつでも訪問できます。. 楼蘭は、漢・魏代の西域諸国の一つで、新疆ウイグル自治区ロプノールの北西にあったオアシス都市。 ガンダーラ文化の影響を示す遺品・漢式鏡・漆器などが発掘されたことで世界的に有名だ。. 中国人によって、かつては西域(せいいき)とよばれていたアジア大陸中央部の美術。地理的にパミール高原によって東西に2分され、東トルキスタン(現中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区)、西トルキスタン(キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、カザフスタンの5.

キジル石窟が属する現在の庫車(クチャ)・拝城一帯は、西域北道において歴史上もっとも仏教が栄えた、かつての亀茲(きじ)の地にあたる。当時の亀茲は仏教寺院や僧侶がひしめきあう仏教王国であり、4世紀中ごろの『出三蔵記集』には「時に亀茲の僧衆一万余人」、「寺甚だ多く、修飾至麗たり。王宮は立仏の形像を彫鏤し、寺と異なるはなし」などと記録されている。また同書には、タリム盆地諸国の王侯の婦女が集まる尼寺が亀茲に三箇所あったとの記述があることから、亀茲は西域仏教における一大中心地として機能していたと考えられる。 亀茲にいつごろ仏教が伝わったのかは明らかでないが、中国側の史料によれば、すでに3世紀末から4世紀初めにかけて、相当数の亀茲出身の僧侶が、中国で仏典翻訳に従事していたようだ。そこに登場したのが、4世紀前半~5世紀前半に活躍し、亀茲を代表する人物とも称えられている鳩摩羅什(くまらじゅう、Kumārajīva、生没年不詳)である。 彼は亀茲国王女を母として生まれ、その父はインド人であった。幼くして母とともに出家し、インドに留学して小乗仏教を修めたが、インド北西の罽賓(カシミールあるいはガンダーラ)において大乗仏教に出会い、亀茲に戻った後はひたすら大乗仏教の宣揚に努め、大いに尊敬を集めた。その名声は亀茲国のみにとどまらず、広く西域諸国に鳴り響いていた。『高僧伝』巻二には、「西域の諸国、みな什の神俊に伏す。毎年の講説に諸王みな座側に長跪し、什をして践(ふ)みて登らしむ。その重んぜらるること此のごとし」と記されている。その名声を伝え聞いた中国からの強い要請を受け、鳩摩羅什はやがて長安で訳経に従事することになった。 鳩摩羅什が長安にやってくる以前にも、原語を漢訳した仏典は中国に存在した。しかしそれらは、中国固有の老荘思想の観念や用語に仏典をただ当てはめたもの。やがて中国では、このような方法論で仏典を研究することへの反省が広まり、仏教の原語と教義を深く理解した外国の僧侶による訳経が望まれるようになった。そこへ適任者として白羽の矢が立ったのが、鳩摩羅什である。彼はインドへの留学により梵語を身に付けており、大乗仏教にも精通していた。 彼は三千余人ともいわれる弟子を育てながら、『阿弥陀経』『大品般若経』『維摩経』『大智度論』などの大乗経典をつぎつぎと漢訳していった。とくに『妙法蓮華経』は名. 1906年と1913年にキジル石窟を調査した、ドイツ探検隊のアルベルト・フォン・ル・コックが驚嘆したのは、キジル石窟の壁画を彩る群青色の美しさだった。 彼が著書で称賛したウルトラマリン、すなわち天空を思わせる深い群青色を生み出しているのは、アフガニスタンでしか原石が採れないという貴重な鉱物、ラピスラズリ(lapis lazuli)である。ラテン語の石を意味するラピスと、アラビア語の天空・青を意味するラズリに由来するラピスラズリは、西方に位置する現在のアフガニスタンからはるばる運ばれてきたものだった。いつの時代も高価だったラピスラズリ。それがふんだんに使われていたことにル・コックは驚いたのだった。 もう一つル・コックを驚かせたのは、キジル石窟に「東アジア(中国)の影響がいささかも見られない」bことだった。地理的には中国に近い位置にあるにもかかわらず、そこの仏教美術には中国的要素が認められず、むしろインドやペルシア(イラン)の影響が顕著だったのである。例えば、ササン朝ペルシア(226~651)の影響が明瞭なフリーズ壁画(1)は、もと石窟内の台座の左右を廻っていた帯状装飾で、真珠形の円形装飾の中にササン風の鴨が一羽ずつ向かい合い、宝石入りのネックレスをついばんでいる文様が見える。キジル石窟の仏教美術には後期古代様式を模したインド・ペルシア風のものが多く、ル・コックはこれらを「もっとも興味があり、芸術的に完璧な絵」bと評した。 ササン朝ペルシアとは、イラン高原やメソポタミアを支配し、盛期にはアフガニスタンにも進出したという、イラン系の大国家である。アフガニスタンのラピスラズリといい、ペルシア風の美術様式といい、キジル石窟は遠くのペルシアやインドなど西方の影響が強いという、「東アジアらしくない」意外な遺跡だった。. 4世紀頃の朝鮮半島の状況を知る重要な手がかりとなっている、中国の吉林省集安県にある長寿王が建てた碑を何という? →高句麗好太王碑文(こうたいおうひぶん) 中央アジア美術 (ちゅうおうあじあびじゅつ) 中国人によって、かつては西域せいいきとよばれていたアジア大陸中央部の. 新疆ウイグル自治区博物館<ウルムチ> 《9 /14(2日目)》 新疆全域の文化、歴史、民族の紹介、シルクロードにちなむ展示が豊富である。見ものは「楼蘭美女のミイラ」である。発掘は1980年、埋葬時期は約4000年前とされるが、保存状態はとてもよい。. 入門票を買う管理小屋は西寺区だけにあります。 キジル千仏洞(克孜爾千佛洞) ー中国四代石窟の一つで、クチャから北西へ70kmのバイチョン(拝城)県にあります。石窟はムザト河北岸の40mの断崖に東西2キロに渡って創られています 。3~4世紀頃、クチャ. org クムトラ石窟は、ムザルト河に添って5世紀から8世紀にわたって開窟された仏教石窟寺院の遺跡群で、現在112窟が確認されています。クチャ近くにあるクムトラ村がその名前の由来です。文化大革命や、開窟以来千数百年を経ていることのよる劣化、付近のダム工事による地下水脈上昇の影響が問題になっていますが、近年日本政府が資金援助を行い修復作業を開始。新疆ウイグル地区が急激に親日化したのもそのためだそうです。 40の石窟には銘文や仏教壁画が比較的良い状態で残っており、「中華人民共和国全国重点文物保護単位」のひとつに選定されています。この地に立ち、ムザルト河の流れを見つめるていると、積み重ねられた時の流れを考えずにはいられないことでしょう。クチャを観光で訪れたら、悠久の時間のロマンを感じにぜひお出かけください。.

所属 (現在):独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所,文化財情報資料部,客員研究員, 研究分野:美術史,美学・美術史,文化財科学,芸術学・芸術史・芸術一般,美学・芸術諸学, キーワード:敦煌,芸能,チベット,工芸美術,シルクロード,ヒマラヤ,図像,文化財,密教美術,青海省, 研究課題数:16. See full list on skyticket. 21 平凡社 インド 高田修『佛像の起源』 1967. 年6月22日、カタールのドーハで開催されていた第38回ユネスコ世界遺産委員会はキジル千仏洞などからなる「シルクロードの始点-天山回廊の道路網」を世界文化遺産とすることを正式に決定しました。中国・カザフスタン・キルギス3ヵ国が申請していたもので、中国内22ヵ所・カザフスタン. 中央アジア (ちゅうおうあじあ) アジア大陸内陸部の地域名。 その範囲はかならずしも一定していないが、一般にパミール高原を中心として、東はタリム盆地から西はカザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの5共和国を含む。. 〒東京都千代田区神田神保町 1-7 TEL:FAX:東京都公安委員会許可 第号. 新疆ウイグル自治区51.クチャ07 キジル千仏洞は新疆最大の石窟 忘れへんうちに Avant d&92;&39;oublier: 10. org クチャのスバシ古城は中国の晋代に建設され、唐代に栄えた仏教寺院、昭怙釐大寺(しょうこりだいじ)の跡とされています。庫車河を挟んで、東寺と西寺に分かれている寺で、六朝時代の僧、鳩摩羅什(くまらじゅう)(クマーラジーヴァ)ゆかりの寺として知られているんですよ。1400年ものあいだ風雨に晒され、耐えて残ったものも多数ありますが、砂漠の風景と化してしまいそうな部分もあります。その姿は流れ去った長い時間と、いにしえの繁栄を偲ばせるクチャの観光スポットです。 石窟は無残にも傷んでいて本来は数多くの仏像や絵があったのですが、その多くは盗掘にあったり諸外国によって持ち去られてしまいました。人々の祈りの場であった時代に思いを馳せたくなりますね。クチャ観光ではぜひとも訪れてほしい観光スポットです。.

かつて、そう、ひと昔前に書いて紀行文です。日の目を見ずに埋もれるのは、哀しいので発表します。新疆編4 玄奘は西へ向かう(クチャ) 古来よりあまたの旅人がシルク. 第二部の「ウイグル民族歌舞団」の公演には、定員80名という狭い会場に、100人近い方々が駆けつけてくださいました。 ウルムチの新疆芸術学院の舞踏家たちの美しい踊りの次に、メキトのメシュレプの方たちの楽器と歌の演奏が始まりました。. ベゼクリク千仏洞はトルファンの東 50 キロにある石窟寺院で、木頭溝河の断崖に 70 余りの窟がある。 「ベゼクリク」とは「装飾された家」という意味になる。.

キジル石窟とは、西域北道の庫車(クチャ)(2)の西67キロのムザルト河北岸の懸崖に穿たれた石窟(3)である。これがいつ作られたのかは、創建に関わる文献史料や紀年銘が未発見であるため定説がなく、3世紀末とする説から5世紀末とする説まで幅がある。しかし石窟が放棄された時期については、この地域に唐の勢力が及んだのち、8世紀初めとみる説で一致している。 ではキジル石窟の壁画はいつ描かれたのか、これも実はよくわかっていない。ただし、壁画の様式としては少なくとも二種類の様式がある、という見方がドイツ探検隊によって提案され、それが今日でも定説として受け入れられている。まず第一様式(第一期)の壁画(4)とは、暖色系の彩色を特徴とし、描線は概して丁寧で、立体感をあらわす濃淡のつけ方も穏やかなもの。それに対して、第二様式(第二期)の壁画(5)とは、ラピスラズリが加わった寒色系の彩色で、立体感をあらわすために肉身部に施される濃淡の差が大きいもの。後で示すように、キジル石窟には第二様式に属する壁画が多い。 次に石窟の構造を見てみよう。主な構造には中心柱窟・方形窟・僧房窟の三種があるが、中でも特徴的なのは中心柱窟(6)である。これは主室・中心柱・回廊の三部分からなり、壁面構成はほぼ一定している。 この構造は、以下のような礼拝プログラムにもとづく、一種の舞台装置だ。窟内に立ち入った者は、まず主室において釈迦の前世や在世時の所行に思いをめぐらしながら、中心柱の本尊釈迦仏を拝する。ついで中心柱の周囲に穿たれた回廊を右まわりにまわって中心柱を礼拝し、後廊において釈迦の涅槃を目にする。そこで無仏の世に生きる自らを思いながら回廊を出ると、主室入口上部に描かれた未来仏たる弥勒を観るというものだ。 【1. 大シルクロード天山南路走破13日間⑯ クチャⅡ キジル千仏洞 と鳩摩羅. ウルムチのホテル、入場券、レストラン予約はトリップアドバイザーで一括管理 シルクロードの続く「新疆ウイグル自治区. 中心柱】 中心柱の正壁には、龕を設けて坐仏を安置し、正壁一面に塑像で山岳をあらわすものが一般的で、なかには正壁に大型の. 中国新疆ウイグル自治区文物事業管理局・佛教大学ニヤ遺跡学術研究機構 、仏教大学 、1997 、25ページ 、縦30横21糎 、1冊 展覧会図録、日文・中文併記、正誤表、良好. 5429/今西龍著作集/今西 龍/全4冊/国書刊行会/昭45/17,600円. 主室】 主室の側面には、釈迦の前世物語を描いた本生図(ほんじょうず)(7)や、釈迦の所行をあらわす仏伝図(壁画(8))、釈迦成道後の説法教化の因縁をあらわす説法図(因縁仏伝図)(9)が多数配される。主室はヴォールト天井になっており、そこには菱形の区画内に本生図や説法図を描いた菱形区画本生図(10)や菱形区画説法図(11)などが配され、キジル石窟を特徴づけるものとなっている。 【2. ・クムトラ 新彊ウイグル自治区文物管理委員会・庫車県文物保管所編『中国石窟 クムトラ石窟』 1985.

新彊ウイグル自治区文物管理委員会・庫車県文物保管所編『中国石窟 クムトラ石窟』 1985. シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(シルクロード:ちょうあん-てんざんかいろうのこうえきろもう)は、年の第38回世界遺産委員会でunescoの世界遺産リストに登録された文化遺産の一つであり、ユーラシア大陸の東西交流史において重要な位置を占めたシルクロードの遺跡群のうち. org 庫車(クチャ)大寺は、 新疆で2番目に大きいモスクです。木造とレンガを組み合わせた独特のもので、レンガの白と、床や窓枠などの緑が印象的ですが、窓の格子が中華風なのが土地柄でユニークです。イスラム教が中国に伝わったあと、15世紀頃に建立されました。 礼拝堂の北側にイスラム教司法機関である「宗教法廷」があるのが特徴的です。木目の鮮やかなその空間は、威厳に満ちて他の空間とは違った空気を感じてしまいます。ちょうど日本でも神社仏閣を観光したときに感じる、ピリッと背筋が伸びるような雰囲気があります。イスラム教徒でなくても入館できますが、礼拝時間中は入館できません。また女性はスカーフなどで髪を隠さないと入館できないのでご注意くださいね。 モスクを一歩外に踏み出したら、洗濯物が干してあったり、植木鉢が飾られてあったり、シルクロード北端の庫車の庶民の暮らしが垣間見えます。ぜひクチャ観光で訪れてみてくださいね。 1.

クムトラ石窟 新疆ウイグル自治区文物管理委員会,庫車県文物保管所編 (中國石窟 / 平凡社, 文物出版社共編) 平凡社, 1985. See full list on dsr. 2月18日のポスト・モンゴル時代とその後の遊牧民の続きです。 「近現代における遊牧民から見た世界史」を述べるなら、そのころ台頭してきた西ヨーロッパ文明=言い換えれば都市化を西欧はやたらと強調していた。明治維新後の日本は、これを「文明」と訳し、福沢諭吉などが天まで. 出典: upload. キジル石窟を本格的に調査したル・コックをはじめとするドイツ探検隊は、このような石窟の壁画や構造を、文字ばかりではなく、窟形に関する各種測量、写真撮影、窟内の状況記録、壁画の彩色模写と線描による引き写しなどの形で記録していった。とくにグリュンヴェーデルによる線描図(16)は、壁画のうえに直接薄紙をあてて写しとったものであることから資料的価値が高く、グリュンヴェーデルやヴァルトシュミットによる詳細な研究のための貴重な資料となった。 ル・コックらは、キジル石窟において、壁画の切り取りも行っている。その手順は、まず切り取る壁画の「周囲を鋭いナイフで、切り込みがまっすぐに表面層を貫くように注意しながら、荷造り箱に合うような寸法で切り取」bり、その際、「顔、その他大切な部分を切り込まないよう、曲線であるいは鋭角に境界線を切り取る」bよう配慮する。ついで「壁画面に小鋸を用いる余地をつくるため、ツルハシをもって穴をあけ」b、表面層の状態が悪い場合は、フェルトをかぶせた板を画面にしっかり当てたうえで画面を切り取る、というものであった。 このようにしてドイツ隊が持ち帰った壁画(17)が、いくつもの小部分に切り分けられているのは、こうした切り取り作業によるものである。こうした結果、キジル石窟の壁面には、おびただしい数の切り取り痕や、切り込み線のみで放棄された痕が、生々しく残ることとなった。 こうして切り取られた壁画は、彫刻(18)や板絵(19)、文書類とともにドイツに運ばれ、ドイツ隊にとっては以前のどの発掘にもはるかに勝る、輝かしい収穫となった。その成果は、『中央アジアの仏教古代後期』全7巻cなどの報告書にまとめられ、キジル石窟の研究に大きく貢献することとなった。. 21 平凡社 タイ 九州国立博物館・東京国立博物館・日本経済新聞社文化事業部『タイ~仏の国の輝き~』日タイ修好130周年記念特別展 日本経済新聞社 年4月11日. 中国石窟クムトラ石窟 - 新疆ウイグル自治区文物管理委員会 中国の新彊文物考古研究所(以下考古研と略記)と共同研究を続けてきた。とくに一九九四年~九六年の最近の三年 間は、新彊トルファンの交河故城の西南方にある溝西墓(ヤールホト古墳群)の発掘調査を行ってきた。 中国石窟クムトラ石窟 ―25―. 4 岩波書店 佐和隆研『佛像の流転ーインド・東南アジア編』 1971.

平凡社社 中国石窟キジル石窟中国石窟キジル石窟 最安値 ¥35,680キジル石窟 - Wikipediaキジル石窟(キジルせっくつ、中国語:克孜尔石窟、Kèzīĕrshíkū、ウイグル語:QizilMingÖy)は、中華人民共和国新疆ウイグル(维吾尔)自治区アクス(阿克苏)地区バイ(拜城)県キジル(克孜尔)郷にある. 新疆ウイグル自治区の石窟壁画の材料、技法等を解明するために、東京国立博物館保管の壁画断片(大谷探検隊将来のクチャ出土断片3点、将来者不詳のクムトラ出土断片1点)を対象として、情報調整室・写真室の協力を得て光学的手法による調査と撮影を2. ウルムチ市内では、新疆維吾爾自治区博物館、バザール、紅山公園などが見所だ。 新疆維吾爾自治区博物館は西北路に面している。新疆最大の博物館で収蔵品は50000点以上。入って右側が考古陳列館、左側が民族陳列館だ。.

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